2012年7月30日月曜日

7月30日

今日、前期の翻訳期末試験の結果を見せてもらったのですが、こちらも予想してたよりも良かったです。よかった~。ほっ。振り返ってみると、やはり、試験前に落ちるとこまで落ちて悔しい思いをしたからこそ、今回頑張れたのが良かったのかと思います。いつもは嫌なことがあってもすぐに忘れてしまう私ですが、やはり「悔しい」と言う気持ちを覚えていることは重要なんだなと今回改めて実感しました。
ちなみに今週水曜のフォーラム、スピーカーの方の論文を読んだのですが、読んでも読んでもよく分からない。しかも英語を母国語としないイタリア人の方なので、例えば"mediator"という単語一つとっても、日本語で認識されている意味とは少々異なる意味で使用していたりするので、今回は英語に引きずられないように、意味をとるように頑張らなければいけません。しかもその意味をとるにはイタリア語のアクセントのきいた英語を理解しなければいけません。当日は通訳の神さまY先生も観客として見に来るとのことなので、今回は色々なプレッシャーが重なり、本当に今から不安です。また色々と失敗する可能性大ですが、強い心をもって通訳に臨みたいと思います。いじょう。

2012年7月28日土曜日

7月28日

先日寮のフォーマルディナーに行ってきたのですが、これがちょっとハリー・ポッターの世界のようで面白かった。と言うのも、
①ディナーには黒いマント着用
②ディナーは寮長や神父さんたち(聖公会系の寮なのです)と席を共にするのですが、下々(学部生)とは離れた、一段高い場所に着席。
③長ーいダイニングテーブル
④ダイニングルームには代々の寮長(と思われる)の肖像画が飾られている

と、まあこんな感じでした。ちなみにこのフォーマルディナー、postgraduate(修士課程以上)の寮に住む住人は、週1回は参加するよう言われているのですが、同じ寮に住むクラスメイト曰く、いつも同じ面子しか参加していない模様。
それもそのはず、ディナーの最中は、同じテーブルの学生たちとみんなで楽しく談話するというよりは、自慢話が好きな寮長(70歳)の話をニコニコしながら聞く会、のようで、あまり自由に「わっはっは」と会話する雰囲気はまったくなく、しまいには、ディナーの後には寮長を囲むコーヒータイム(これに出ると数時間は帰ってこれないらしい)があり、要は、寮長が自分のお気に入りの学生に囲まれ楽しい時間を過ごすサロンのようになっているのです。
さて、散々悪口になってしまいましたが、とは言え、これらすべて日本ではできない貴重な経験。フリーディナーも出てくることだし、しばらくは週1回出てみようと思います。

2012年7月25日水曜日

7月25日

今日はいろいろ書きたいことがあるのですが、とりあえず今頭にあることを。
来週のフォーラムで私はまたフロアで逐次通訳を担当するのですが、スピーカーが今日ようやく確定。今度は博士課程で建築×食文化を研究されているイタリア人の方。イタリア人の話す英語の通訳です。実は、先日彼が博士論文について発表をしているビデオを見たところ、イタリア語のアクセントのせいで、ほとんど英語で何を話されているのか理解できず、これを通訳するのか~とショックをうけたばかり。。。と言うわけで、明日から一緒に逐次通訳を担当するクラスメイトと特訓開始をすることになりました。
頑張ります!いじょう。

2012年7月24日火曜日

7月24日

昨晩、前期の通訳の英→日の最終試験結果も送られてきたのですが、こちらも想像よりも良い結果でした!自分で興味深いと思ったのは、先生からのフィードバックを読む限り、今回は日→英の方が誤訳もなく、良い結果だった模様。そう言えば、以前に会議通訳者の方から、最初は自分のネイティブ言語に通訳する方が簡単と感じるかもしれないけど、段々と母国語から英語に通訳する方が楽に感じると思うよと言われたことがあるのですが、通訳の難易度が上がるとやはり英語の聴解やメモ取りが難しくなるので、最近は「日→英の通訳の方がまだましだな」と実感しています。あと、今回は日英も英日も同通のほうが結果がよかったので、これもまた意外でした。引き続き、NAATIレベル4を目標に頑張りたいと思います。

2012年7月23日月曜日

7月23日

本日、前期の期末試験の日→英の逐次+同時通訳の結果が返ってきたのですが、今までで一番良い結果でした!がんばってよかった!ちなみにMAJITの最終試験であるNAATIまであと12週間しかありません。
自分にプレッシャーをかけるためにも、今後の自分の克服課題を発表しますと、

①メインポイントは必ずとる
→ノートをとるときに、メインポイントだけは必ず落とさない、且つ、ロジックが分かるようにとる。
②詳細やニュアンスを落とさない
→逐次の場合、スピーチの速度にノートをとる手が間に合わないことが多いので、記号などの工夫とリテンション強化。また日本語独特の表現など訳しづらいと、訳出しに時間がかかることからノートに書いていても通訳のときにomitする傾向にあるので、必ず出すようにする。出せる表現力をつける。
→同通の場合は、パニックにならずにできるだけ聞いた情報はどんどん出していくようにする。
③文法に注意を払う
→時制、前置詞まで注意を払って通訳するように心掛ける
④メンタル面の強化
→通訳時はまだまだ緊張する傾向にあるので、今期もフォーラムや授業で場数を踏んで、できるだけプレッシャーに強くなるようになる。

いじょう。頑張ります!

2012年7月22日日曜日

新居は最高

本日待ちに待った引越が無事完了しました。今夜はインターネットに繋がらないかと危惧してましたが、幸い、部屋の向きが丁度いいのか、大学のWi-fiのシグナルが届きました。ラッキー。

新しいハウスメイトはジンバブエは首都ハラレ出身のアナ。ジンバブエ出身といっても、英国系ジンバブエ人で、現在博士課程で製薬向けのプロテインの研究をしているんだとか。ちなみにジンバブエでは公用語は英語だそうです。その他に2つの現地の言葉があるとのこと。ジンバブエはインターネットなどで読む限り、政治的にも、経済的にも、社会的にも色々な問題を抱えている国で、かつ平均寿命が世界最低(日本と対極!)という情報しか得られてないのですが、今後機会があればいろいろ聞いてみたいと思います。あ、そうそう、アナ曰く、ジンバブエと比べると、「ブリスベンの人はいつも忙しそうで、一生懸命働いている」んだそうです。オーストラリア以上にリラックスした国ジンバブエ、恐るべし!です。

さて、それから、私今回引っ越しをしまして、ブリスベンに来て初めて、自分専用のトイレとシャワーのある部屋に住むことになりました!!これがまた本当に快適!この素晴らしい環境で、明日から頑張りたいと思います。最後に、わたくしの新しい住処を公開します。じゃじゃーん。



2012年7月20日金曜日

7月20日

最近の出来事。

今日は友人の卒業式に出席しました。月曜には中国に帰国してしまうとのこと。ブリスベンに来た当初からずっと知っている友人で、彼女も通訳翻訳(中国語-英語)の勉強をしており、何かと仲良くしていたので、本当に淋しくなるなぁと今日はしみじみ思いました。

それから、今日は日曜に移り住む寮から新しい部屋の鍵ももらい、そして、今の家の大家さんからも敷金を無事返却してもらい、明後日の引越向けて荷造りを開始しました。この週末が終われば新学期スタートです。


あと、昨日33歳になりました。「ぞろ目で縁起がいいじゃん」と友人に言われましたが、「33」って数字にしてみるとすごい数。もう自分は決して若くないのだなぁと痛感させられました。しかしこれに負けずにこのセメスターを悔いのないよう楽しみ、頑張りたいと思います。

新たな年で新たな環境での新生活が良いものとなりますように。

2012年7月17日火曜日

オーストラリア留学?

先日シドニーの友人と会った際に大変ショックだったことがあります。それは、通訳翻訳を勉強している私よりも、10年オーストラリアに住んでいる彼の方が、私よりも遥かにオージー英語を遥かに理解しており、オージーとのコミュニケーションに遥かに長けていたと言う事実です。実は、キャンベラに行った際に、オージーの友人宅でディナーがあったのですが、その場にはオージー男性2人、フィリピン系オージー男性、友人、そして私。久しぶりに英語ネイティブの中に日本人1人ぽつん、と放り込まれ、容赦ない早口でスラング飛び交う会話に、私は終始相槌をつく以外できませんでした。そして気づけば貝のように口を閉ざして完全に聞くだけの態勢に。。。私、仮にも通訳を勉強しているんだよね?(もちろん、通訳と言うのは英語と日本語の両方に流暢である必要があり、単に「英語で話す」こととは異なりますが。。)でも英語ネイティブ相手の会話だと未だにこの有様なのか。これは久しぶりに頭を「がん」と殴られたようなショッキングな経験でした。


以前も書いたことがありますが、私のクラスメイト8人中、6人が日本人(残りはオージー)、友人も留学生が中心で、ほとんどがアジア系です。またハウスメイトもほぼ全員が留学生。クラスメイトとは日本語で話しますし、留学生の友人とはお互い第二言語の点をある程度気遣って話をするので、普段のコミュニケーションで特に問題はありません。でもせっかくオーストラリアにいるのに、英語ネイティブのオーストラリア人と交流する機会が少ないと言うのは、何だかもったいないというのが正直なところです。おそらくこれは人文科学ビジネス系の修士課程にいる留学生だったら誰もが一度は思ったことがあると思います。
ちなみにUQの修士課程、特にpostgraduate courseworkの人文科学、ビジネスなどのプログラムでは凡そ7割以上が留学生、そして会計、コマース、ビジネス、ツーリズムなどの専攻になると9割が中国人の留学生で占められており、UQを見れば教育産業がオーストラリアの国の一大産業であることが本当に良くわかります。でも、これには中国人の友人ですら「中国に住んでるのと変わらない」と不満をこぼしていました。と言うわけで、現地の人と交流し、英語ネイティブに鍛えられるには、それなりの努力が必要になるわけです。実は、これが今回、少々値段は高くつきますが、寮に入ろうと思った理由の一つでもあります。引越、そして恐怖の最終セメスターが始まるまであと数日です。本当にもう最後なので、勉強も、オーストラリアでの生活も悔いのないように頑張りたいと思います。

2012年7月15日日曜日

7月15日


今日は英語のクラスで一緒だった中国人の友人たちと久しぶりにランチに行ってきました。彼女たちとは昨年2月にUQに入学したいわば同期生なのですが、オーストラリアの修士課程は大半が1年半のコースなので、ほとんどがこの7月で卒業、国に帰ります。ちなみにUQは明日から卒業式ウィークです。淋しくなります。
「(中国に帰ったら)ブリスベンでの生活が恋しくなると思う?(Do you think you're gonna miss Brisbane?"」と聞いてみたところ、「うん、そうだね。やっぱりこの自由な生活が恋しくなるだろうな。"Yeah, I think I will miss the freedom here, you know."」と言っていました。


中国とは政治も社会も全く異なるオーストラリアでの生活を経験した彼女たち、日本人の私にはあまり大っぴらには語りませんが(「中国でフェイスブックが使えないのは意味が分からない」、「中国はコピーが大好きな文化だからねー」くらいは言ってるけど)、心の中で自分の国をどう思っているのだろうと時々思います。


ちなみに今回の留学で私は何人か仲良しの中国人の友人ができたのですが、彼女たちの素晴らしいところは、とにかく友人や仲間を大切にするということです。日本人よりもずっと、友人を思いやり、友人同士助け合う意識が強いように見えます。またこのように同胞を助け合う意識があるからこそ、中国人は世界中で強いコミュニティを作って生活できているのかもしれないなぁ、とも思います。


以前も書いたことがありますが、私は昨年の2月、留学して早々セメスターが始まる直前に右足を骨折する大事件があり、その際にも、「大丈夫?」とちょくちょくメッセージをくれたり、学校で荷物を持ってくれて一緒に歩いてくれたり、代わりに買い物に行ってくれたのは、中国人や台湾人の友人でした。彼女たちと知り合っていなかったら、あの大変な時期をサバイブすることはできなかったと思うので、彼女たちには本当に本当に感謝しています。彼女たちは私よりもずっと若いので(まだみんな25くらい)、将来中国でも、他の国でも活躍してもらいなと思います。

2012年7月14日土曜日

7月14日

シドニーから帰ってきて以来、ずっと雨の続いていたブリスベンでしたが、今日はようやく天気の良い1日になりました。そしてここ最近、湿度は高いですが暖かい毎日が続いていてなかなか快適。もう冬は終わったということなんでしょうか。

さて次のセメスターまで残すところ僅か1週間となりました。来週の日曜には大学の寮への引っ越しも控えています。前のセメスターには全く運動をしなかったので、このセメスターは科目も一つ増え、さらに忙しくなるとは聞いてはいるのですが、ここのところ太り気味なので、このセメスターは何としても運動をしようと思い、今日は早速シティでランニングシューズを買いました。これをはいて、毎日走る時間を何としても作ろうと思います。ちなみに大学の寮はキャンパス内の大きな池沿いにあり、走るところはいくらでもあるナイスな立地環境です。一体どれだけ勉強が忙しくなるかはまだ分かりませんが、オーストラリアでの最後のセメスター、新たな環境で新たな出会いや嬉しい発見があることを祈るばかりです。

7月13日

この日曜日に、私の大の仲良しのマレーシア人の友人が帰国することになり、今日は大学の近くのカフェで2人でお別れディナーをしました。彼女とは年齢が一回り以上離れているのですが、私が10年前にUQに交換留学したときに同じ寮に住んでいだのがきっかけで仲良くなり、その後私が社会人になってブリスベンに遊びに来た時も、当時UQの博士課程にいた彼女の家にお世話になるなど、何かと親しくしていました。でも、お互い忙しくしているうちに自然と連絡が途絶え、今年に入るまで何年も音信不通の状態に。ところが、今年に入り、共通の友人がフェイスブックで彼女がUQにサバティカルで来ていると教えてくれたのをきっかけに、また彼女と再会することができ、幸運にも同じ時期をブリスベンで過ごすことができました。人との縁て面白いもんですね。そしてフェイスブックも時には本当に役に立つ!


彼女に先日「どうしてまたブリスベンに戻ってこようと思ったの?」と聞いたところ、「オーストラリアは外国人研究者にとって米国や英国よりも開かれた環境があるし、何より前回UQで勉強してた時に良い友人や素晴らしい人たちと出会えた経験があることかな」とのこと。なるほど、私もこれには激しく同意。留学生を収入源としか考えていない大学にうんざりすることも多々ありますが、私も今回UQに戻ってこようと思えた理由には、やはり交換留学時代に素敵な友人たちと出会った経験が大きく影響していると思います。
もちろん、言うまでもなく彼女もその内の一人です。今年初め、私が最初のシェアハウスでトラブルを抱えていた時にも家に招待してくれて沢山ご飯を作ってくれて励ましてくれたり、節約生活を送る私に「私のお気に入りのカフェにケーキを食べに行こう!」とご馳走してくれたり、今日も帰国する彼女から「今までありがとね!」とサプライズギフトをもらったり(本来私があげるほうだった。。。)、ご馳走しようと思っていた矢先、「私も学生長くやってたからよくわかるの、今後お金がいつ必要になるか分からないわよ!」と逆にご馳走されたり、、、と彼女の思いやり溢れるエピソードはここには書ききれないほど。彼女の懐の深さには本当に頭が上がりません。また自分が外国人としてまた貧乏学生として弱い立場で生活している今だからこそ、彼女の優しさがさらに心に沁みます。彼女とまたしばらく会えなくなるのは本当に本当に淋しいですが、今度彼女が日本に来たときにちゃんとお返しをしようと心に誓い、また次に彼女に会えることを願う今日この頃です。

2012年7月11日水曜日

キャンベラ旅行記

そして忘れてはいけない、シドニーから車で3時間(ちなみに時速110キロで)のキャンベラにも行ってきました。キャンベラはブリスベンの4分の1くらいしかないんじゃないかと思うほどの本当に本当に小さな町。あるものと言えば、国会議事堂や大規模な博物館美術館、そして政府機関の建物、大学、、と言った感じでしょうか。でもキャンベラでは約10年ぶりに友人と再会したり、町中から外れたところにある素敵なレストランに行ったり、マイナスの寒さを感じたり、シドニーへの帰り道で電灯のない真っ暗闇の高速で巨大な月を見たりと、楽しい時間を過ごしてきました。

①キャンベラへの道中。オーストラリアのだだっ広い荒野が続く3時間。


②奥に見えるのが国会議事堂


 ③キャンベラのシンボル、ジェット噴水


シドニー旅行記③

それから、シドニーから車で2時間ほど離れたところにあるブルーマウンテンズに今回初めて行ってきました。ここは本当にオーストラリアの大自然が見られる素敵なところで行く価値ありです!ちなみにブルーマウンテンズは、ユーカリが生い茂っている地域で、気温が上昇してユーカリに含まれる油分が蒸発し、それが空中に広がったところに太陽の光が当たると青色に霞んで見えることから、ブルーマウンテンズと呼ばれているそう。なるほど、たしかにブルー。





シドニー旅行記②

それから、面白かったのはシドニーの中心街から30分ほどのところにあるボンダイビーチで、ビーチの砂浜の目の前にアイススケートリンクができていたことでした。そう言えば、ブリスベンにもつい最近まで同じアイススケートリンクがシティホールの前にあったっけ。海を見ながらのスケート、楽しそうだった!





シドニー旅行記①

昨日シドニーから帰ってきました。シドニーには7年ぶりに行ったのですが、久しぶりに行ったら街が前と比べたら随分と栄えていました。何て言ったって、ブリスベンにはなかなかない、購買欲を掻き立てるような美味しいそうなものやかわいいものが売っている!そして街中には今どきのおしゃれ女子+男子が沢山歩いてました。さらにはオーストラリアに2店舗しかない(衝撃。。)、ZARAの入ったデパートは、都会風のおしゃれなビルで、高級ブランドのお店が立ち並び、それから高級フードコートでは日本のデパ地下を彷彿させるような美味しそうなケーキやお惣菜が売っており、貧乏学生の私が気を抜いたらお金を使ってしまいそうな場所が結構ありました。
でも、そういうデパートもさすがオーストラリアで、夕方6時にはすべて閉店。5時に仕事を終えた女性たちが、それからジムに向かうのか、高級デパートのきれいなトイレには、仕事着からフィットネスウェアに着替える女性たちであふれていました。そうそう、シドニーで印象的だったのは、ランチタイムに皆が走るなり、サッカーするなりで、会社員と見られる人々がエクササイズを楽しんでいることでした。写真はランチ時のボタニックガーデン。



2012年7月5日木曜日

7月4日

明日、と言うか、もう今日からですが、シドニーの友人のところへ遊びに行ってきます。そして、友人と一緒にシドニーから車でキャンベラの友人に約10年ぶりに会いに行ってきます。楽しみです!ちなみにキャンベラは天気予報によると、ものすごく寒いらしく、最高気温は12度、最低気温はなんと、マイナス2度!どうしてそんなに寒いんだろう?少し内陸だからでしょうか?私は寒がりなので、暖かいブリスベンから真冬のキャンベラに行くのがちょっと恐ろしいです。では、帰ってきたらまたブログをアップします。

2012年7月4日水曜日

難民問題 追記

オーストラリアに来て1年半、大変お恥ずかしながら、これまで難民問題について関心を持ったことがなかったのですが、ここ最近での難民船転覆ニュース+友人の話を聞いて以降、この数日、ネットでオーストラリアの難民問題について少し読んでみました。
そうしたところ、やはりオーストラリアでも人道的な立場から不法難民を「保護するべき」と主張する立場と、「不法で入ろうなんて容認すべきでない」と反対する立場で分かれている模様。ちなみに最近では、つい先日、オーストラリアに漂着した不法難民をオーストラリアの領域外に一旦移送して難民申請を行うことを認める法案が否決されました。

サバのように自身の命を守るためにオーストラリアに来る難民がいる一方で、違法な仲介業者が手配した難民船でオーストラリアの海域に船を漂着させ、オーストラリアの難民ビザと取得しようとする不法難民の数も増えているとのこと。よって、この難民問題について一概に何が正しいかと意見を述べることはできません。以前、元UNHCR職員の方が難民問題についてお話されていたときに、実際に難民キャンプでは、難民認定をされたいがために、虚偽の申請を行う人々も多数いるという話も聞いたことがあります。

でも、先日ゴールドコーストで雨の中、姉とホエールウォッチングに行ったとき、小型船で荒波に揺られ、船酔いに苦しんだ恐怖体験を考えると、何百人もの人を乗せて、劣悪な環境の中、遠く離れたアフガニスタンからわざわざ命がけで難民船に乗ってオーストラリアに来るというのは、貧困、戦争、差別など、自身の命に代えても国外脱出したい問題を自国に抱えているからに他ならないからだと思います。そのような状況にある人が世界にはまだ沢山いるということを常に頭の片隅にでも置いておくことは、自分をはじめ平和ボケの日本の人たちに必要だと感じる今日この頃です。

2012年7月3日火曜日

オーストラリアの格安ツアー情報

先日姉が遊びに来た時に利用した「予約ドットコム」のサイト。オーストラリアのツアー(日英)が他よりも格安で予約できます。日本語のツアーは通常英語ツアーよりも割高なので、私はいつも現地ツアーを探すのですが、現地ツアーもこのサイトだと割安で予約できるのでおすすめです。
日本からも予約できるみたいなので、オーストラリアに旅行を検討されている方は、ぜひご覧になってみてください。いじょう!

★予約ドットコム: http://yoyaku.com.au/

2012年7月2日月曜日

平和ボケ

週末、ブリスベンでの私のお姉ちゃん的存在ともいえる、マレーシア人の親しい友人に久しぶりに会い、ややショッキングな話を聞きました。


彼女の元ハウスメイトで現在はーストラリアで医者として働くイラク人の女性医師、サバの話。私も以前、7年前にブリスベンに遊びに来たときに会ったことがあるのですが、バグダッドで医者として働き、当時は英語学校に通っていた彼女を、私は当時てっきりイラク人の裕福な家庭に育って、優雅にオーストラリアに語学留学をしに来たお嬢さんだとばかり思っていました。
しかし本当は、彼女はイラクからの難民の一人だったのでした。


イラク戦争が終戦し、米国がイラクの治安維持を行っていた頃、バクダッド大学の英文学教授であったサバのお母さん、そして医師として働くサバは、戦争で夫を亡くしたイラクの女性たちが自活できるよう、米軍からの支援を受けて女性のための協会を設立。サバのお母さんが協会会長、サバが秘書として活動を行っていました。しかし、米軍と直接の接触がある彼女たちを快く思わないイラクの反米軍組織から、サバのお母さん、協会の副会長の女性、そしてサバ本人にある日脅迫状が届いたとのこと。


その数日後、仕事に出かけようとしたサバのお母さんは、玄関先で反米軍組織に銃殺されました。お母さんは自宅の前で12発撃たれて即死したとこのと(サバはお母さんが銃殺されたときの写真と脅迫状を今でも持っている)。そして数日後、副会長の女性の切り取られた舌が、彼女の自宅前で発見されました。


彼女たちと同様に脅迫状を受けていたサバは、自分の身の危険を感じ、まずは離婚して離れて暮らしていた父に助けを求めるも、全く取り合ってもらえず。「自業自得だ」と暴力も振るわれた挙句、追い返されたそうです。最終的には彼女は国連に掛け合い、オーストラリアの人権擁護のボランティア団体がサバの国外脱出を支援することが決定。そして行き先も告げられないまま、サバはたった一人で、オーストラリア人のボランティアと共に黒いバンに乗り込みました。到着した先はクウェート。そこからオーストラリアに入国したそうです。当時の彼女は20代前半。その後オーストラリアで英語を勉強し、メディカルスクールを卒業した彼女は、現在クイーンズランド州の農村地帯の病院で医師として働いているそうです。

この他にも、あるイラン人の家族も、イラン・イラク戦争の際にオーストラリアに難民としてやってきた人たちでした。当初イランから幼い子ども2人を連れて一家4人でインドネシアに船で合法的に脱出するも、インドネシアまでの長い道中で旦那さんがパスポートを紛失。インドネシアに到着するもパスポートがないことを理由に、旦那さんはインドネシアの監獄に入れられてしまうことに。イランでは弁護士をしていたと言う旦那さん、イラン大使館が彼を解放をしたときには獄中生活で精神病におかされてしまっていたとのこと。


その後、家族はインドネシアでの生活状況が良くないため、オーストラリアに亡命。今回は違法で、1人3万ドル(AUD)を業者に支払い、難民船でオーストラリアへ。オーストラリアに無事到着後は難民キャンプで保護を受けた一家。旦那さんが病に侵されていたこともあり、豪政府がこれを考慮し、比較的短い期間で難民認定、受入を行ったとのこと。現在は成長した娘さんは美容師に、息子さんはスーパーの店員、そして病状が少し回復した旦那さんもスーパーで働いているとのこと。

何がショッキングだったかと言うと、まさか自分の身近にこのような経験をしてきた人がいたことに、私はものすごい衝撃を受けました。ここ数週間、アフガニスタンから何百人もの難民を乗せたボートが続けてオーストラリアに流れてきており、途中船が転覆して90人が死亡、など、ニュースで大きく取り上げられていましたが、私は飽くまでニュースで見る話として見ていて、まさか友人とお茶をしている最中に聞くような身近な出来事だとは全く受け止めていませんでした。


そしてこのような話を聞くと、自分が日本でいかに恵まれているかを痛感します。もちろん、日本社会でもさまざまな問題はありますが、自分の身の危険を感じることなく、また日本人として自由に自国で生活できる環境があることはラッキーなことなんだと実感しますし、何不自由なく生活している自分は頑張らなければいけない、と思います。平和ボケ、幸せボケの私の頭には良い刺激になりました。