週末、ブリスベンでの私のお姉ちゃん的存在ともいえる、マレーシア人の親しい友人に久しぶりに会い、ややショッキングな話を聞きました。
彼女の元ハウスメイトで現在はーストラリアで医者として働くイラク人の女性医師、サバの話。私も以前、7年前にブリスベンに遊びに来たときに会ったことがあるのですが、バグダッドで医者として働き、当時は英語学校に通っていた彼女を、私は当時てっきりイラク人の裕福な家庭に育って、優雅にオーストラリアに語学留学をしに来たお嬢さんだとばかり思っていました。
しかし本当は、彼女はイラクからの難民の一人だったのでした。
イラク戦争が終戦し、米国がイラクの治安維持を行っていた頃、バクダッド大学の英文学教授であったサバのお母さん、そして医師として働くサバは、戦争で夫を亡くしたイラクの女性たちが自活できるよう、米軍からの支援を受けて女性のための協会を設立。サバのお母さんが協会会長、サバが秘書として活動を行っていました。しかし、米軍と直接の接触がある彼女たちを快く思わないイラクの反米軍組織から、サバのお母さん、協会の副会長の女性、そしてサバ本人にある日脅迫状が届いたとのこと。
その数日後、仕事に出かけようとしたサバのお母さんは、玄関先で反米軍組織に銃殺されました。お母さんは自宅の前で12発撃たれて即死したとこのと(サバはお母さんが銃殺されたときの写真と脅迫状を今でも持っている)。そして数日後、副会長の女性の切り取られた舌が、彼女の自宅前で発見されました。
彼女たちと同様に脅迫状を受けていたサバは、自分の身の危険を感じ、まずは離婚して離れて暮らしていた父に助けを求めるも、全く取り合ってもらえず。「自業自得だ」と暴力も振るわれた挙句、追い返されたそうです。最終的には彼女は国連に掛け合い、オーストラリアの人権擁護のボランティア団体がサバの国外脱出を支援することが決定。そして行き先も告げられないまま、サバはたった一人で、オーストラリア人のボランティアと共に黒いバンに乗り込みました。到着した先はクウェート。そこからオーストラリアに入国したそうです。当時の彼女は20代前半。その後オーストラリアで英語を勉強し、メディカルスクールを卒業した彼女は、現在クイーンズランド州の農村地帯の病院で医師として働いているそうです。
この他にも、あるイラン人の家族も、イラン・イラク戦争の際にオーストラリアに難民としてやってきた人たちでした。当初イランから幼い子ども2人を連れて一家4人でインドネシアに船で合法的に脱出するも、インドネシアまでの長い道中で旦那さんがパスポートを紛失。インドネシアに到着するもパスポートがないことを理由に、旦那さんはインドネシアの監獄に入れられてしまうことに。イランでは弁護士をしていたと言う旦那さん、イラン大使館が彼を解放をしたときには獄中生活で精神病におかされてしまっていたとのこと。
その後、家族はインドネシアでの生活状況が良くないため、オーストラリアに亡命。今回は違法で、1人3万ドル(AUD)を業者に支払い、難民船でオーストラリアへ。オーストラリアに無事到着後は難民キャンプで保護を受けた一家。旦那さんが病に侵されていたこともあり、豪政府がこれを考慮し、比較的短い期間で難民認定、受入を行ったとのこと。現在は成長した娘さんは美容師に、息子さんはスーパーの店員、そして病状が少し回復した旦那さんもスーパーで働いているとのこと。
何がショッキングだったかと言うと、まさか自分の身近にこのような経験をしてきた人がいたことに、私はものすごい衝撃を受けました。ここ数週間、アフガニスタンから何百人もの難民を乗せたボートが続けてオーストラリアに流れてきており、途中船が転覆して90人が死亡、など、ニュースで大きく取り上げられていましたが、私は飽くまでニュースで見る話として見ていて、まさか友人とお茶をしている最中に聞くような身近な出来事だとは全く受け止めていませんでした。
そしてこのような話を聞くと、自分が日本でいかに恵まれているかを痛感します。もちろん、日本社会でもさまざまな問題はありますが、自分の身の危険を感じることなく、また日本人として自由に自国で生活できる環境があることはラッキーなことなんだと実感しますし、何不自由なく生活している自分は頑張らなければいけない、と思います。平和ボケ、幸せボケの私の頭には良い刺激になりました。
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